こぶ

いつからなのか正確にはわからないが、僕のスマホの液晶画面に小さなこぶができた。こぶはふつうに見た目ではわからない。スマホを傾けていろいろな方向と角度から覗いてみても、どこにもふくらみは見当たらない。

 

はじめてこぶらしきものの存在に気づいたのは大学病院の待合室だった。糖尿病の網膜症を悪化させ、失明の危険がありますと脅かされた。やむなく何度かに分けてレーザー治療を受けることにして、その日も名前を呼ばれるまでの時間、退屈しのぎにスマホで誰かのブログを読んでいた。失明の危機を脅かされても、さいわいまだ液晶画面の文字はふつうに読めた。

 

いつものように画面上を上方向へとフリックするとき、一度だけ、あれっ? という違和感を覚えた。そしてそれ以来、散歩の途中で地図アプリをピンチインしたとき。映画が始まる直前にマナーモードをサイレントに切り替えようとしたとき。そういうなにかの拍子にときどき同じような感触があった。

 

感触といっても、ざらりとした指触りがあるわけでもなく、そこで動きが止まってしまうわけでもない。ただ人差し指の先に、ほんの少しつっかかる程度のふくらみを意識したに過ぎない。そのときはまだ、どうせコーヒーの飛沫でも飛んで、画面の上で固まっているのだろうくらいにしか思っていなかった。

 

実際、液晶画面を傷つけないよう、試しに軽く爪でこそいでみたことも一度や二度ならずある。そのうちまた忘れて、またある瞬間、たとえば音楽プレイヤーのアプリを起動してお気に入りのプレイリストをフリックしているときに突然こぶは現れた。

 

不思議なことに、こぶの場所を特定しようと意図的に画面上でゆっくりと指先を動かしてみても、どうしてもその場所を探り当てることができないのだ。それは何度やっても同じこと。しかもあいかわらずこぶは僕の肉眼では見えない。

 

失明? という恐怖が一瞬頭をよぎる。あるいはレーザー治療の後遺症? それにしてはブログの文字は変わらず見える。だいいいちこぶが見えないのはかろうじてそれで説明がつくとしても、触ってこぶの位置が正確に特定できないのはなぜだろうという疑問は残る。

 

妻にさりげなく、「ねえ、悪いけどここ適当に触ってみてくれない」と頼んで電源をオフにしたスマホの暗い画面をタップした。「なに、どうしたの?」と妻は不審がる。いいからやってみてよ、とせっつく。

 

「指先に何か感じない?」「何ってなに?」「ふくらみというか」「ふくらみ?」「そう、こぶみたいな」「こぶ?」「いや、何でもないんならいいんだけど」「別になんでもないけど」「うん、だったらいいんだ」

 

だんだん、こぶのことが本格的に気になりはじめてきた。しかも気のせいか前よりちょっと大きくなった。それでもなお、肉眼では見えない。

 

こぶは日増しに大きくなった。それはもう気のせいとかなんとかではなく、あきらかに前より大きい。いつのまにか緩衝材のプチプチのあの一つの粒くらいの大きさに成長していた。こぶのことが一刻も頭から離れなくなった。

 

これだけ大きなこぶが、液晶画面のどこにあるのかわからないということが僕にはわからなかった。違和感はあるにせよ、スマホの操作上どうしても困るというわけでもなかったが、いつまでもそうもいってられないので、とうとう僕は携帯会社のショップを訪ねることにした。

 

窓口で対応してくれた唇がグロスでテカテカしたおねえさんに、こぶのことを(こぶとはいわず)それとなく尋ねてみた。おねえさんは僕の話を黙って頷きながら聞いた後、しばらく電源を入れずにスマホをタップしたりフリックして、僕が最初にやったように、傾けていろいろな方向と角度から液晶画面を覗いた。

 

そうして困ったように、「どこにもふくらみは見えませんし傷もないようですし、触った感じも特に問題は見当たらないですねえ」といった。

 

「そうですか」と僕はたったいま空から落ちたパラシュートが地上でしゅんと萎んだように肩を落とした。「どうもありがとうございました」と立ち上がりかけたとき、「もしお時間が……」とおねえさんに呼び止められた。

 

続けて囁くような声で「……あるようでしたら、地下へ下りてみませんか?」と僕にいったのだ。

 

案内された地下は、携帯会社がテナントとして入っている同じビルの地下のことだった。でも入り口は別で、一度表に出る。さっきここへ入ってくるときは、こんな地下へ下りる階段なんてあったかなあ、というくらい目立たない場所にある。

 

手動の扉を開けるとカウンターの向こうに作業着を着たおじさんがひとりすわっていた。僕はその前に腰かけ、もう今度はこぶのことを包み隠さず打ち明けてみた。そういうことを打ち明けても大丈夫そうな雰囲気の人だった。

 

「ああはいはい、こぶですね」と、おじさんは僕が昼ごはんに食べたメニューを復唱するかのようになにごともなくいった。それから僕のスマホをやはり傾けていろいろな方向と角度から覗きこみ、真っ暗な液晶画面をタップしたりフリックしてみた。

 

「たしかにこぶですね」とおじさんはもう一度はっきりいった。

 

「見えますか?」と思わず勢い込んで僕は訊いた。「いえ、残念ながら私には見えません」とおじさんは申し訳なさそうにいった。「でも触った感じはあるんですね?」と訊いた。「いえ、残念ながら私はこぶに触ることはできません」とおじさんはいった。

 

だったらどうして?

こぶというのはそういうものだからです。

 

おじさんの言葉を素直に引き受けることが出来ないまま、「それで修理はできますか?」と僕は少し苛立ちながら訊いた。「つまりこぶを取り除くことはできるんですか?」

 

おじさんは、今度は時計屋さんが修理の時に使うような拡大鏡を作業着の胸ポケットから取り出し、それをまぶたに挟んで、さっきより念入りに液晶画面を覗きこみ、それからシルクに指を這わせるよう慎重に触れてみた。

 

「このまま放っておけば非常に危険な状態でした」と、おじさんは拡大鏡を作業着の胸ポケットに戻しながらいった。「液晶がそうとうダメージを受けているんですね?」と僕は訊いて、「心当たりないんだけどなあ」と不本意だと言わんばかりに頭をかいた。

 

するとおじさんは、「いえ、液晶画面ではなく、危険なのはあなたでした」と僕の顔をまっすぐ見据えていった。驚いた僕は、「派手に割れでもしたら怪我をしていたかもしれませんね」と曖昧に笑った。

 

「そういう物理的な危険ではありませんが、でもとにかく、レーザー治療やってみましょうか」とおじさんはあいかわらず落ち着いた声でいうと、机のすぐ後ろのキャビネットの一番上の引き出しから一枚の用紙を抜き出した。

 

「こちらの施術同意書にサインをお願いできますか?」と、胸ポケットのボールペンを僕の方へ差し出しながら、ヘッドをカチリと押した。