りありすむ(透明人間の不自由な日常)

ある朝自分の部屋で目覚めると巨大な虫になっていた男の話を書いた作家がいたが、僕の場合は虫ではなく透明人間になっていた。

透明人間だから他人から僕の姿が見えないばかりか、自分で自分の姿も見えない。これは自分が透明人間になってみるまで気づかなかった盲点で、想像以上に不自由なことだった。なにしろ靴下も上手くはけない。髪の毛を整えようとしてもそもそもいまがどんな状態なのかさえ鏡で確かめることができない。 

家族のものたちは最初さすがに驚いたみたいだ。昔気質の父親は頭から信用しようとせず、僕がなにか性質の悪いいたずらを仕掛けて仕事をサボろうとしているのだとカンカンになって怒った。 

母親はただ心配してオロオロするばかりで、それでもまあ食事の世話だけは三度三度してくれたからありがたかった。大学生の妹は、いまだにそうなんだけど気味悪がって遠巻きに僕を見ている。 

そしてなにより、僕自身がいちばん悩んだし苦しんだ。想像を絶する以上に。当り前でしょ? でも、もうそのときのことは話したくない。いつか機会があれば小説にでも書くかもしれない。 

僕には学生のころからつきあっている純子という彼女がいた。いまもいる。純子に連絡して家に来てもらい、はじめて僕のこんな姿を見せたとき、もっとも姿は見せられなかったが、彼女はそりゃあちょっとは驚いたみたいだったけど、すぐに僕を受け入れてくれた。 

そのとき僕は全裸で(いきなり服だけ浮いて見えるのもかえって気持ち悪いと思ったから)、彼女は僕が手で導くまま恐る恐る僕の全身をくまなく触っていき、そうして僕だってすぐにわかったんだってさ! 

「マキオくん、私わかる、あなただってわかる」
「ごめん、大きくなっちゃったみたい」
「ばか、こんなときでも?」
「だって姿が見えないという以外、あとは何も変わってないんだ……たぶん」「じゃあ、試してみる?」
「いいの? 気味悪くない?」
「ちょっと怖い気もするけど、でも平気。マキオくんはマキオくんだし」 

僕の父親は小さな印刷会社を経営している。透明人間になってしまった僕は、それまで勤めていた出版社を長期病気療養という口実で辞め、父の印刷会社で働くことになった。 

いつまでも僕が透明人間から戻ってこないので、とうとう父も観念していまの僕を不承不承認めてくれたようだ。認めたというか、態度を一時的に保留することにしたという方が正解に近いかもしれない。 

僕は印刷会社の別棟にある鍵のかかったプレハブ小部屋で、朝から晩まで一日中本の箔押し作業をやらされている。本の表紙を一冊ずつ開いて箔押し機の上にのせ、手でレバーを下げると上からギュッと箔が押しつけられる。金箔とか銀箔のタイトル文字、見たことあるでしょ? 

そこなら他の従業員たちに見つかる心配はないし、社長は夜中に俺がやってるんだよと彼らには冗談半分にいってるみたいだ。もっとも機械のガシャンガシャンという音は洩れてるだろうから、従業員たちには冗談の残り半分はきっちり怪しまれてるみたいだけど、なにしろうちのような零細企業は社長が右といえば左でも右だからね。 

透明人間の生活は慣れるまでは大変だった。家のなかならまだいいんだ。家族は僕が透明人間だってことを知ってるわけだから。たとえばマグカップが空中を飛んでいようが、誰もいないはずの風呂から鼻歌が聴こえて湯舟が波打っていようが頭では理解できる。 

ただ、食べたものや飲んだものがちょうど口の辺りから少しずつ下に落下して咀嚼されいく様子だけは気持ち悪がるから、どうせ見えないとわかっていても僕は家のなかでもきちんと服を着てるし、あまり家族の前で食事はしないようにしている。もう家族そろって晩ごはんを食べるなんていう時期はとっくに過ぎてるから問題ない。 

でも、僕も自分で自分のそういう姿を妹のドレッサーで確かめたことあるけど、服だけがプカプカ空中に浮かんでいて、なんとも奇妙な感じだった。マネキンより酷い。特に頭のところが何もないのがね、最悪。帽子をかぶってなんとか遠くからシルエットが半分人間に見えるかなあという程度だ、きっと。 

よく映画などで透明人間が顔や全身を包帯でぐるぐる巻きにしてたの、あれいまならわかる気がするなあ。だって、そうでもしなきゃ人前に出られないもの。ぐるぐる包帯もちょっと怖い感じを与えるかもしれないが、帽子や服が空中に浮かんでそれが規則正しく動いている方がその何倍もホラーだ。 

実際の話、今では僕は外に出るときはほとんど純子と一緒。二人づれってだけで世間の目はずいぶん違う。そうして怪しまれないようにシリコン製の全身スーツを装着している。これ結構高かった。スキンを作ってる会社が極秘に開発して製造販売している。薄いけど破れにくく、冬は案外保温効果があって夏は意外と蒸れにくい。日本の技術って世界一だ。え、なんの話か分からない? 

う~ん、どうしようかなあ。これいっても大丈夫かなあ。 

あのさ、実は、透明人間として暮らしてる人って、僕以外にも他にたくさんいるんだよ。そのことは街を歩いてみてはじめてわかった。自分が透明人間じゃないときはそんなふうな目で周りの人間を見ないから見過ごしていたんだと思う。いざそうなってみると結構、「あ、あの人も透明人間だ」って気づくことがある。 

僕もそうやって見知らぬ透明人間に声をかけられ、初めてのときは飛び上がらんばかりに驚いた。それ以来、ときどき町で見かけたら僕の方から声をかけることもある。それで知ったんだよ。そういうシリコン製のスーツの存在。 

しかも、世の中にはなんと透明人間たちだけで運営しているまともな会社もあるし、同じ境遇の人が集まって悩みを打ち明けたり趣味を共有したりするコミュニティだってちゃんとあるんだ。 

そういうところでは、透明人間として生きていく心得とか、どうすれば安心で安全に暮らしていけるかレクチャーしてくれる。だって考えてみてごらんよ。透明人間のままだと僕からはこの世界のことが見えるけど、世界からは僕のことなんてなんにも見えないんだからね。 

通りを歩いてくる人も、後ろからくる自転車の人も、道路を横切ろうしたときに直進してくる車も、向うからは僕が見えない。つまり誰も僕がいるからって止まってくれない。そいう危険を防ぐために、僕らはシリコンスーツを多少窮屈でも装着しないわけにはいかないし、その上からふつうの人が着るようなふつうの服を着ないわけにはいかないんだ。 

顔はまあ、あまりじろじろ見られないように帽子を目深にかぶるか、パーカーのフードをかぶることが多い。どうせ見えないんだったら裸でもいいだろと思うかもしれないけど、そうもいかないということがこれでわかってくれた? 

純子とは映画にも行くし、遊園地にも行く。そういうこともおかげでいまはほとんどふつうにできる。以前純子に、「僕の本当の顔が見えなくて不安にならない?」って聞いてみたことがある。そうしたら純子はいった。 

「不安じゃないといったらウソになるし、顔なんてどんなでもいいっていうのもウソだよね。だけど、私にはマキオくんの記憶も思い出もあるし、私には想像力もある。だからこの先、マキオくんが歳をとっていけば、私も同じように歳をるってことだから、そこは想像力でどうにでも補えると思う。なにより、マキオくんは私がよく知ってる正真正銘のマキオくんなんだもの」 

まあそんなわけで、僕は透明人間になってしまった。この先一生このままなのかそれは僕にもわからない。いずれ元に戻る特効薬が発明されるかもしれない。でもまあとりあえず僕はふつうに暮らしているし、それなりに幸せだ。 

近々純子とは結婚するつもりだ。純子はお母さんと二人暮らしだから、もしかしたら同居ってことになるかもしれない。ただ、純子のお母さんは僕の境遇には理解を示してくれたけど、結婚には反対している。無理もない。 

でも、きっといつかはわかってくれると思う。わかってくれるまで僕は必ずお母さんを説得するつもりだ。それは透明人間だろうと透明人間でなかろうと同じことだから。 

純子と結婚の話をしてたとき、僕が子どもは半透明な赤ちゃんが生まれるかもしれないね、って悪い冗談いったら、純子急に真顔になって、「子どもはできてもできなくても、透明でも半透明でも構わないわ。それよりマキオくん? 私のこと好き? 本気で愛してる? そうならそうとはっきりいって。目で見えないなら、せめて言葉にしないと伝わらないこともあるんだからね」って。 

だから僕は自分から純子の唇を迎えに行き、僕たちは長い長いキスをした。