口紅

彼女は右足を少しだけ引き摺って歩く。それは決して癖ではなく、彼女が5歳のころ、彼女のお父さんのお父さん、つまり彼女のお祖父さんの自転車の後ろに乗せられていたとき後輪に足を挟まれた、そのときの後遺症なのだと彼女は僕に打ち明けてくれた。 

彼女の右足のくるぶしのところにはいまもそのときの深い傷跡が残っている。けれど彼女は事故のことは何も覚えていないと言う。 

僕は、「だったら僕も、ほら」と彼女の方に顎を突き出して見せた。「このちょうど顎の先端部分に、きみのと同じような深い傷跡があるんだ。これはね」と僕は訊かれてもいないことを勝手に喋り出していた。 

僕と彼女がまだ正式に付き合い始める前のことだったと思う。プランタン銀座のアンジェリーナが、外堀通りに面して1階に細長く店舗を構えていた時分のことだ。のちに僕らはよくそこで小ぶりで濃厚なモンブランを食べた。 

「これはね、8歳のときにできた傷なんだ」と僕は勲章かなにかのように顎の傷跡をさすった。 

初めて泳げるようになり、町営の子ども用プールに潜って友だちと遊んでいた。5年生の体格のいい男の子が知らずに両足から僕の頭の上に思いっきりダイブしてきた。僕はプールの底でしたたかに顎を打ちつけた。と、そのときの惨劇の様子を一部始終彼女に話した。 

「痛かった?」と彼女は訊いた。「痛くて大泣きした。血がドクドクトと出てプールの水面の僕の周りが赤いインクを水に溶かしたみたいになった」と僕は言った。彼女は8歳の僕の痛みをたったいま感じているかのように複雑に顔をしかめてくれた。 

「触ってみてもいいよ」と僕は彼女に言って、もう一度顎を突き出した。彼女はそおっと僕の顎の輪郭を指先で確かめるようにさすった。「髭剃り跡がザラザラしてる」と彼女は笑った。「でも傷のところだけはスベスベしてるのね」と言って、その指で今度は自分の唇の輪郭を撫でた。