水の底に沈んだ村と二月

水のペットボトルを作りたいんだ。世界でまだどこにもない、と言い出したのは僕だ。「水なんてわざわざ買う人がいると本気で思う? 蛇口をひねればいくらだって出てくるのに」と彼女は笑ってまともに相手をしてくれなかった。 

それはそうかもしれないけれど、世の中こんなにたくさんの種類のペットボトル飲料があふれていて、水のペットボトルだけがないというのはいかにも不自然だ。まだ世界中の誰もそのことに気づいてないだけで、と僕は思う。 

たとえばお茶、紅茶、ウーロン茶、コーラやサイダー、スポーツドリンク、コーヒー、それにお酒も、コーンスープもみそ汁も、カレーだってある。飲み物という飲み物、一度でも誰かが飲み物だといったものは全部もれなくペットボトルに詰められ売られている。なのに水だけはない。 

彼女はコンクリート柵から大きく身を乗り出して向こうのダムを覗き込んだ。淡い水色のワンピースに濃いめのデニムジャケット。足元のスニーカーが地面から浮いてぷらぷらしている。ワンピースの裾が大胆にせり上がって、あと少しで大事なお尻が見えてしまいそうだった。大事なっていうのはつまり僕にとってのという意味だ。 

あの水の下に小さな集落があったなんて信じられない、と彼女は言った。いまでもあるのよね、人が住んでないだけで。神社だってあったかもしれないし、腰が水平に曲がったおばあさんがやってた日用品のお店なんかもそのままの形で。そういうのってなんか不思議だなあ。ダムという巨大な容器にそっくり密封されてるみたいで。 

そう言うと彼女はとうとうコンクリート柵によじ上った。膝を閉じ両手を太ももの上に揃え、僕の方にきちんと向き直った。 

昔ね、お祖父ちゃんの家の応接間にボトルシップっていうのがあった。知ってる、ボトルシップ? お酒の空き瓶のなかに小さな模型の帆船が入ってる。瓶の口は帆船よりずっと小さいのに、どうやってそれ瓶のなかに入れたんだろうって。お祖父ちゃんに訊くといつも笑って、「そういう魔法があるんだよ」としか教えてくれなかったけど。 

彼女はちょうどティンカーベルが魔法の杖を振るような仕草をしてみせた。僕は、兄貴に借りた中古の赤いチェロキーのドアに寄りかかったまま彼女に訊いた。「つまりダムの底に沈んだ村が、そのボトルシップの帆船模型と同じだってきみは言いたいわけ?」 

ううん。だってダムは魔法なんかなくってもあとから水を流し込めば作れるんだし。瓶のなかの帆船は、水のない海を航海しなくちゃならない。だけどね、そういうふうに何かのなかに閉じ込められるってどういう気持ちかしら?  

「さあ、どうだろう」そんなこと僕は考えたこともなかった。「模型の帆船やダムの底に沈んだ村に人間と同じような感情なんてあるかなあ?」と言って彼女の方へ歩み寄り、コンクリート柵を背にした。 

「寒くない?」と僕は訊いた。「平気」と彼女は言った。「僕がやろうとしている水のペットボトルの開発が、エコじゃないとか馬鹿げてるとまだきみは思ってるんだね」 

「そうじゃない。私はロハスでもナチュラルローソン派でもない」と彼女は微笑んだ。「このないだニュースで見たけど、月の無人探査機が誤差100メートルのピンポイントで目標地点に着陸しようかっていう時代なのよ」 

そう言って彼女はコンクリート柵から思い切り飛び降りて、体操選手のように着地のポーズを決めた。それからワンピースのお尻をパタパタと軽くはたいて僕の方を振り返った。 

「いまよりずっとあとの時代の人は、水のなかにどうやってミニチュアみたいな村を作ったんだろうって不思議に思うかもしれないね」と冗談半分のように笑った。 

「僕はたぶんきみ以上にリアリストだろうけど」と言って彼女の手をとった。「ダムに沈むと決まってから、あの集落の建物は大部分壊されたんだ。古い木造の家はそのまま残したものもあるらしいけど、そういうのはどうせ水のなかで腐っちゃうわけだし。あとは道路とか神社の石段の残骸だけ。そいうのもいまはもうないかもしれない」 

「そう、残念」と彼女は言った。カフェのランチタイムの時間がだいぶ前に終わったと告げられたときのように、それほど残念そうなふうでもなく。僕らはチェロキーをそこに置いたまま、もうしばらく周囲を散策した。初夏のような陽気だといったが、さすがにこの辺までくると空気はひんやりしていた。 

まだ世界中探してもどこにも見当たらない飲料水のペットボトルを作るために、僕はこうして生まれ故郷へ戻ってきた。3つ歳上の彼女を連れて。水のペットボトルを作るには良質で豊富な地下水が必要だから。そして研究所はこの土地にあったから。 

もう少しこの奥の方へ行けば、夏はたくさんのホタルが見られるし、町のバンド組んでる連中がここに集まって盛大なロックコンサートだってやる。それに花火大会だってここが打ち上げ会場になるんだ。ということを僕は彼女に道々話して聞かせた。 

「じゃあ、今年の夏はホタルもロックコンサートも花火大会も全部欲張りに見られる」と彼女はうれしそうに言った。
「うん、一緒に見にこよう」僕は言った。
「ねえ、沈んだ集落に住んでた人たちって町に移り住んだの?」
「ほとんどが地主だったからね、町でそれなりにいい暮らししてるって噂だよ」なかにはこの土地を離れて都会に出た人もいたらしい。
「でもそういう人たちは、ここから打ち上げられる花火をどんな気持ちで見てるのかしら」 

僕らはあっというまにダムの端っこまで行ってまたチェロキーを置いた場所まで戻ってきた。町の駅前銀座商店街も新しくできたばかりだというイオンも、本物の銀座や都会のおしゃれなデパートを知っている彼女からすれば、あのダムの底に沈んだ集落や瓶の中の帆船模型みたいなものだ。 

それに、と僕は思った。彼女だって、これからもしかしたらこの不慣れな土地に一生縛られて窮屈に生きていくことになるのかもしれない。かつて僕自身が息苦しさから逃げ出したこの土地で。 

車も買わなくちゃならないなあ、と僕は思った。田舎では車がなくてはどこへも行けないし、兄貴のチェロキーを借りてばかりというわけもいかないだろう。僕の通勤用のと、彼女の小さな軽もいる。 

「ねえ」と彼女は繋いだ手にぎゅっと力を込めた。「私たちにいつか生まれてくる子どもの名前だけど、たとえ男の子でも女の子でも、二月、という名前にしない?」「二月って、一月二月の二月?」
「漢字でそのまま二月って書くの。縦書きにしても横書きにしてもいいバランスだし、とってもやさしそうな響きだし」
しばらく考えてから僕は、「もし二月に生まれなかったら?」といじわるな質問をした。

彼女も僕と同じくらいゆっくりと時間をかけて、「そのときはまた別の名前を考えるわよ」と満面の笑みを浮かべた。