さくら水産

高い天井の明り取り窓からあふれんばかりの陽光が降り注ぎ、プールの水面がキラキラと乱反射していた。プールサイドからテラスへと出るスライド式の透明ドアの向こうに、低木のハナミズキが薄いピンク色の花を咲かせている。 

歳をとって私は健康に人一倍気を遣うようになった。数年前に医者にかかるような大病もした。家内の勧めもあり週に1~2度、平日午前中の1~2時間だけ、まだ空いている時間を見計らって区営のプールへ通うことにしている。 

長時間泳ぐほど私は泳ぎが得意ではないので、もっぱらフリーコースで水中ウォーキングに励む。目的はダイエットではなく筋力をつけること。土の上を長時間歩くより、水の中を歩くのは腰の負担が軽くていい。 

フリーコースは日によって異なるが、2つか3つのコースの間のロープを取り払い、わりあい広めにとってある。そこでは飛び込みと潜水以外のことなら、私のように歩いてもいいし、泳ぎやターンの練習をしてもいいし、水の中でちゃぽちゃぽ遊んでいるだけでも構わない。 

私が歩いているすぐ横を、見た感じ決して痩せてはいない男が二人、私と同じようなペースで歩いていた。私とは同年代だろうか。彼らの目的はあきらかにダイエットだろう。二人の会話の内容からもそれは容易にうかがい知れた。

「わたしはこう見えても食が細くて、朝はバナナ1本とか昼もパンひとつ齧るくらいにして、夜はまあ普通に食べるんですけどね」と赤いキャップの男が言う。
「それでも全然体重が落ちないんですよ」
するともうひとりの白いラバーキャップの男が、
「そんなはずないよ、食べなきゃ太らないんだから」と言いにくいことを遠慮なくズバリと言う。 

赤いキャップの男が言い返す。「いやいや、なんだったらわたしの生活を見てもらいたいくらいですよ。ほんと食べないんですから」
どうやら二人はまだ知り合って間もないらしい。 

「そうかなあ、そんなはずないと思うんだけどなあ」
「まあそんなことはともかく、どうですか、お昼ご一緒しませんか?」
「お、いいねえ、どっかいい店ある?」
「どこでもいいですか?」
「いいよどこでも」
「じゃあ、あそこにしませんか、さくら水産、ごはんと味噌汁お替り自由だし生玉子も海苔も食べ放題ですから」と赤いキャップの男が言って、「いいよいいよ」と白いラバーキャップの男ががははと声に出して豪快に笑った。 

ご存じない方のために一応書いておくと、さくら水産とは、夜は居酒屋だが昼間は安価で盛りのいい日替わり定食や刺身定食を提供して、会社員や学生などに人気があるチェーンの飲食店のことだ。 

私は、さきほどまで二人の間で交わされていたダイエットに関する会話と、ごはんお替り自由のさくら水産とを頭のなかで思い比べながら、「さもありなん」と合点がいったのだった。 

面白そうなので私はこっそり男二人のあとについてさくら水産に来ていた。地下の入口の自動券売機で食券を購入し、案内されたテーブルに腰を下ろす間もなく、ごはんとみそ汁が運ばれてきた。賄いのお姉さんが私の食券を受け取り半分だけちぎって持っていく。追いかけるように刺身盛りの皿が出てきた。 

残念ながら私からは離れた向こう側のテーブルに、私があとをつけてきたプールの男二人の姿はあった。この距離だと会話は聞こえないが、きっとここでもまだダイエットの話に花を咲かせているに違いない。 

私のすぐ隣のテーブルに向かい合って坐っているのは若い OL 風の二人組だった。どちらも白いブラウスに上下とも紺の制服姿だ。聞くともなしに二人の会話が自然と私の耳に入ってくる。 

どちらかといえば化粧がやや濃い顔の造作も派手な感じがする方の女が、近々結婚を機に退社するという話をしている。
「しばらく専業主婦にでもなるわ」と言っている。
それに対し万事控えめそうにしているもう片方の女が、「ジューンブライドなんて理想的じゃない」といまどき古風な言葉で相槌をうつ。 

「それがね」と派手な方の女が思わせぶりなことを口にする。まわりっくどい彼女の話を要約すると、結婚後は旦那さんとなる男の転勤先の新潟へ彼女もついていくことになるのだそうだ。まあそれはそうだろうな、と私は思った。新婚早々、単身赴任ではどちらも寂しいだろう。 

ところが彼女は生まれも育ちも東京で、今度移ることになった土地を実地検分に行ったら、これがまあ驚くほどの田舎だったらしいのだ。
「地元の駅? さあ、正直どこにあるかもわからないくらい。コンビニもないし、ファミレスも、吉野家もマックとかも営業所の近くには全然ないんだもん。彼お昼どうするんだろうね?」
と箸をなめながらケタケタと笑っている。 

(専業主婦のあなたが、旦那さんのお弁当を毎朝作ることになるんじゃないですか?)とよほど口を挟みたくなったが、ギリギリのところで思いとどまった。まあしょせんは他人事なのだから。 

それにしても、退社に結婚に転勤までくっついてくる三重苦ならぬこの場合はなんというのか、めでたさも含めて女は一度に大変な苦労を背負うことになるのだと私は同情する。 

彼女たちがテーブルを立ち去ったあとの、茶碗や皿がふと目に入ってきた。ソースとドレッシングにまみれ、キャベツの千切りやごはん粒の残りなど、うっかり見なければよかったと後悔するするくらい酷かった。こうみえても私は、そういう細かいところだけは無性に気になる性質なのだ。 

もちろんそれも他人事だから見て見ぬ振りをするが。 

おや、さきほどから携帯電話でずっと大声で喋り続けている柄の悪そうな男がまだお喋りをやめない。はっきり言ってうるさくて癇に障る。きっと他のお客さんもこの場にいるほとんど全員が私と同じように不快に思っているはずなのに、誰ひとり注意しない。賄いの店員もそうだ。 

私は何度も注意しに立ち上がろうと、もう寸前まで腰を浮かせかかるが、そのたびにまた腰をぐっと椅子に抑えつける。同じような状況から私はよくトラブルに巻き込まれる。 

そこで私は、近ごろいつも意識してそうするように、もし西郷隆盛だったらこんな場合どう振る舞うだろうかと考え、行動の指針とすることにした。西郷隆盛翁は私が歴史上最も敬愛する人物だ。その西郷さんなら、こんな場合なにを言い、どういうふうに動くだろうか。 

逸る気持ちを落ち着かせ、じっくり西郷さんだったらどうするかに全神経を集中させてみた。すると、西郷さんならそもそもあんな柄の悪そうな男の態度など微塵も気にせず、悠然とガシガシごはんを掻き込んでいるのではないかという結論が導き出された。しかもごはんはお替り自由だ。 

「なるほど、そうかもしれない」と納得して、私は一人ほくそ笑んだ。急に気持ちが大らかになった。 

ついでに、「では坂本龍馬だったらどうするだろう?」と考えてみることにした。しかしながら私は、その自問自答の答えがすぐに閃いたのだ。坂本竜馬だったならば、というより iPhone 片手にこの店内で一番大きく響き渡る声で喋っているその男こそ、龍馬本人だろうということに。 

そう思い至った途端、私がいまいる場所はさきほどまでのさくら水産ではなく、幕末の寺田屋か近江屋あたりの座敷になっていた。写真でしか見たことがない本物の坂本龍馬が、やはり iPhone 片手に、大勢の真ん中に突っ立って、よく響き渡る大きな声で電話の向こうの誰かと喋っていた。 

電話の相手は勝か西郷か桂だろうか。龍馬の周りには武市半平太中岡慎太郎岡田以蔵らの仲間たちが集まって、みんなでワイワイ愉快に酒を汲みかわしていた。私がプールで出会った男たちも OL風の女たちも、どういうわけだかその場にいる。 

私はぶるると身震いがした。