美里子さんと僕(1)

とてもバカみたいな話。夫婦ゲンカして美里子さんが部屋に篭ったきり出てこない。僕はそうされるのが嫌なので、むしろ自分から家を飛び出した。だけど美里子さんが部屋に篭るのと僕が外に出るのは、冷静に考えればふたりとも同じような行動原理っぽくて可笑しい。 

どこかでもうこれ以上夫婦ケンカが大事にならないようにという抑制が働くのか。お互いちょっとひとりになって頭を冷やそうと瞬間的に思うのか。それともしばらく相手の顔も見たくないというネガティブな気持ちなのか。 

僕の方には、正直ほんの少しくらい美里子さんに心配かけさせてやれという意地悪な気持ちもなくはない。「なくはない」 

僕がどうして美里子さんに部屋に篭られるのが嫌かというと、その時点でケンカの分が良くても悪くても、一方的にプツンと糸を切られて砂漠に置いてけぼりにされた猫みたいに心細くなるのが嫌なのだ。 

できればある程度相手を納得させた上で、一旦落ち着いてケンカの幕引きを図りたいという狭量な考えもなくはない。「なくはない」「あるはある」 

したがって僕の方が美里子さんの言い分に納得して落ち着く、という選択肢のことは最初から念頭にないのかもしれない。ないな。お互いダメージが小さい範囲で、でもケンカには勝ちたい! というのが偽らざる心境です。ズルイといえばズルイ。でもケンカってだいたいそういうものじゃない? 

まあ能書きはともかく、ゆうべもとっぷりと夜が更けた時間に夫婦ケンカになった。原因なんてとっくに忘れたけれど、美里子さんがイライラしながらこれ見よがしに映画のDVD一枚持って寝室に篭ってしまったので、僕も負けじとこれ見よがしに小銭入れだけひっつかんで外へ飛び出した。 

といっても、もちろん本格的に家出しようなどとは思ってないから、小銭入れ以外の財布もスマホも文庫本も家の鍵も車の鍵も自転車の鍵も仕事鞄も、もちろん着替えも持たずに家を出た。しばらくほとぼりがさめるまでそこらをうろつくつもりだ。 

あ、スマホを置いてくるというのは僕があみだした究極の必殺技で、これで美里子さんから僕へはいっさい連絡がとれない。つまり僕がいまどこにいるのか、帰ってくるつもりなのか、いつ帰ってくるのか、美里子さんには気を揉むことしかできないというわけだ。 

一方、僕の方は、24時間営業のマックやファミレスでコーヒー飲んでもいいし、ただやみくもに夜の散歩を楽しんでもいいし、本屋さんはもう閉店しているので立ち読みで時間を潰すのは無理だとしても、コンビニで雑誌の立ち読みくらいならできる。 

もっとも、美里子さんが僕の不在などちっとも気にかけず、そればかりか家を出たことさえ知らずにゆっくり映画を見ているという可能性もまったくなくはなかった。また「なくはない」だ。というか大いにある。 

とりあえず僕は駅の方に向かった。けれど夜遅くまでやってるスーパーも、TSUTAYABOOKOFF も、ミスドも、24時間営業じゃないマックも既に閉まっている。最寄り駅構内のシャッターも降りている。しかたなく町をあてどなく彷徨い歩いた。 

中島みゆきの歌に「土曜でなければ映画も早い」というような歌詞があるけれど、深夜上映の映画館にでも潜り込めればいちばんいい。だがあいにく今日はまだ月曜の深夜だ。正確には火曜の早朝。早朝も早朝。カラスも鳴いてなければシジュウカラも鳴いてない。そもそも映画を見るだけのお金も持ってない。 

終電はとうに終わってるのに、結構歩いてる一般人がいる。みんなどこから現れてどこへ去っていくのだろう。「おーい、いっぱんじーん」酔っ払いみたいに心のなかで呼びかけてみる。会社帰りなのか「会社帰りですかーごくろうさーん」これから出勤途中なのか「これから出勤ですかーごくろうさーん」。 

本物の酔っ払いはちゃんと本物らしく、右へ左へ傾きながら気持ちいいのか悪いいのか歩いている。SAMのダンスを思い出した。スイングってやつ。ランニングスーツに身を包んで真夜中のバス通りをひた走っている女の人もいる。昼間他人にそういう姿を見られるのが恥ずかしいのだろうか。 

老女のような青白い水銀灯だけがところどころ灯る狭い商店街の道を、配送用の2トン車が我が物顔で切り裂いていく。まるで深夜の王者のごとし。 

だが総じて夜は静かでやさしい。都会はどうかわからないが、私鉄沿線のこのあたりの郊外になると、さすがに深夜には深夜なりの生真面目な静寂が訪れている。連続テレビドラマの予約録画を忘れずに実行するハードディスクドライブみたいな律義さと制御された動作音。 

フィッツジェラルドではないけれど、総じて「夜はやさし」だ。そして「言うまでもなく、人生とは崩壊の過程である」。 

美里子さん心配してるかなあ、でもまだ警察に捜索願を出すほど時間がたったわけでもないし、と思いつつ交番の前はつとめて何食わぬ顔でやり過ごす。ちゃんと目的を持って歩いている人の振りをして。 

24時間マックを見つけたから、そこで僕はようやく座ってコーヒーを飲んだ。一杯100円。ネットカフェや漫画喫茶はなんとなく気後れで、一人カラオケというのはもっての外。お酒が飲めればそういう店でヤケ酒という手もあるだろうが、くどいようだけど所持金もない。ツケで飲ませてもらえる店なんて僕は知らない。身を寄せられる友だちもない。 

おれって一人で時間潰せる場所も手段もないんだなあ、と思ったら途端に悲しい気分になった。悲しい色やねん。おれのこれまでの人生っていったいなんだったんだろう。一人称が「おれ」になってるのは、やさぐれてる証拠だ。 

「ばっかみたい」 

いい加減くたびれて、そろそろ家に帰ろうと思った。実は僕はやっぱりズルくって、歩くにしてもどんどんどんどん家から直線的に遠くへ離れて行くのではなく、帰りたくなったときにそれほど苦もなく帰れるように、頭のなかの地図にわが家を中心とした大きな環状線を引きながら歩いていた。 

だから家には案外早くたどり着いた。 

玄関の鍵がかかってなくてよかった。静かにドアを開け、音も立てずに家の中へ入ったら、美里子さんはまだ部屋に篭ったままだった。もう眠ったのかもしれなかった。