感情教育

僕の頭の中のしかるべき場所にあるデスクトップには幾つかのフォルダがわりと気ままに並んでいて、そのひとつひとつにもたくさんのフォルダがそこでは整然と並んで収まっていて、更にその下の階層にあるフォルダまで含め全部誰かに対する感情の保存場所になっている。 

いちばん上位階にあるフォルダにはそれぞれ家族・親戚・友人・仕事関係・町内会・息子学校関係・娘学校関係・その他というふうに便宜上の名前がついているが明確な区分はない。 

たとえば町内会とその他の区別は難しいし、学校関係は二つあって中のフォルダの多くはかぶっているし、仕事関係のフォルダに入っている特定のフォルダのコピーが友人フォルダにもあるという具合に。 

真ん中の階層のフォルダにもやはり各々吉田くんとか山口さんとか母親とか前園先生とか社長とかアンデルス・エーケベリとかいう名前がついている。いちばん下の階層には、怒り・思いやり・友情・恋愛・ムラムラ・軽蔑・しみじみ・「べつに」などの名前のついたフォルダがある。 

そしてようやくその中に隠された具体的な感情のファイルに辿りつくというわけだ。ファイルには何年何月何日何時何分どういう場所のどういう状況でどういう感情が生じたか、画像ファイルとテキストファイルとで仔細に記録され、それは日々刻々と追加され上書きされ同期され削除され更新される。 

そうやって僕らは感情という極めて扱いが困難で厄介なものをきちんと整理し管理しているのだ。 

初めて誰かと出会ったときすぐさま一時ファイルが作成されしかるべき場所に保存される。あとで個別にフォルダを作った方がいいと脳が判断したときはそうするし、ずっと一時ファイルのまましばらくして削除されてしまう場合ももちろんある。 

死んだ人のフォルダには名前の最後に喪章のようにアスタリスクをつけてそのてのフォルダばかりを集めたデスクトップとは異なる保管場所へ速やかに移動し、必要とあればいつでも検索できるようなシステムになっているのだ。 

デスクトップのフォルダは油断するとすぐいっぱいになる。その結果他人への感情を咄嗟に探し出せないケースや、あるいは間違えて誰か別の人の感情フォルダを開いてしまうといった弊害が出てくる。 

久しぶりの同窓会で会った友人を「この人前にどこで会ったかしら?」と思い出せなかったり、会社で挨拶された途端恐怖で身が竦んでしまったり、葬式に来たのに遺影を見て急に腹が立ったり、道端で出会った見知らぬ人になぜかたまらなくハグしたくなったりする。 

そのような混乱を避けるためもう二度と会わない人、忘れてしまって構わない人、名前だけ記憶していればいい人のフォルダを定期的に外部USBメモリに書き込んでデスクトップから外してやらなければならない。必要になればまたいつでも戻せばいいのだから。 

ある日僕は大学時代の同期で友人だった等々力と10年ぶりに偶然町で再会した。そして彼が僕らのテニスサークルのアイドルでもあった水口紗英さんと結婚したことを知った。事情があって式は挙げてないという。 

当時僕が紗英さんに熱をあげていたのは言うまでもないことだが、実は紗英さんもまんざらでもない素振りを僕に対して見せてくれていた。でもとうとう僕は自分の気持ちを紗英さんに告白することなく卒業してしまった。 

等々力との偶然の再会でしかも彼の自宅にまで招かれ久しぶりに紗英さんとも会うことになった。その夜ワインに酔った勢いもあり僕はかつての紗英さんに抱いていた感情をあっというまに蘇らせてしまった。 

その後も紗英さんに会いたい一心で幾度となく等々力の家を訪ね、外で三人で食事する口実を見つけては僕は紗英さんと会った。だんだん僕は自分の感情を抑えられなくなった。等々力には内緒でとうとう紗英さんの携帯番号を聞き出し、いまの僕のそしてかつての想いを告白した。 

「愛しています」 

紗英さんは最初戸惑ってみせたが僕からの執拗な誘いをついには拒めなくなり、僕らは初めて二人だけで会うことに成功した。あとはそういう関係になるのにたいして時間はかからなかった。僕は等々力をそして妻を裏切った。 

しかしながら今度はだんだんと紗英さんの方が僕に対し積極的になってきた。「こうしてたびたび外で会うのは人目にもつきやすいし、お金も勿体ないし、時間も無駄だから、いっそ小さなアパートの部屋でも借りない?」と持ちかけられた。「あなたさえよければすぐにでも探すわ」と迫られた。 

「部屋を借りるといっても妻に内緒で持ち出せるようなお金は僕にはないよ」と答えると、「あらだったら私とのことは気まぐれだったのね」と紗英さんは悲しそうに泣いた。僕の中の罪の意識がはっきりと目立つ程度にまで育っていた。等々力と妻を裏切っていることの後ろめたさ。 

僕はすっかり臆病風に吹かれてしまったのだ。次第に紗英さんを疎ましく感じるようになって距離を置くようになった。そういう感情も含めて過去の感情ごとそっくり全部消し去ってしまいたいと思うようになった。 

ある夜僕は思い切って「紗英」という感情フォルダをまるごとUSBメモリにコピーも取らずに移動した。そうしてそのまま一睡もせずひとり東京湾アクアラインを海ほたるまでドライブして、そこで件のUSBメモリを海に向かって力いっぱい投げ捨てた。