本の神様

読みさしの本をポンとソファの上に放り投げ冷たいビールでも取ってこようかとキッチンへ行きかけたところで、「いたい」という奇妙な声がした。 

「え、いまなんか言った?」と芙由子に訊くと、「いたいよ」と芙由子はさっきのと同じ声色を出し、「――って、本の神様が言った声が聞こえた」と今度はいつもの自分の声で言った。 

俺は冷蔵庫からようく冷えたヱビスビール350ml缶を1本取り出しその場でプルトップを開けぐっと一息飲んだ。それからリビングの方へ戻った。 

「本の神様ってなんだよ」
「だから本の神様」
「放り投げたから?」
「放り投げたから」
「それで痛いって?」
「そう。痛いって」 

本の神様が柔らかいソファの上に放り投げられたくらいで痛がってたら製本所とか取次とか書店とかでその他のたくさんの本の神様と一緒くたにされてパレットに積み上げられたり段ボールにぎゅうぎゅう詰めにされたりトラックの荷台でゴトゴト揺られたりまた積み上げられたり立て掛けられたり袋に入れられたりするんだぞ、そのときはいったいどうなるんだよ。あっちでもこっちでも「イタイイタイイタイイタイ」で、うるさくて敵わないじゃないか。 

と、言いたかったが俺はそれらの言葉をビールと一緒にぐっと飲み込んだ。 

「芙由子ってさ、ときどきそういこと言うんだな」
「そういうことって?」
「本の神様とか」
「おばあちゃんっ子だからね」
「一粒のお米の中に100人の神様がいるんだったよな」
「そうよ。だから残さずきれいに食べなさいって教えられた」 

あんな小さな米粒の中に神様が100人もいたら狭くて息苦しくて神様死んじゃうよ。それにその100人の神様、というかごはん茶碗一杯でいったい何人の神様がいるんだかわかったもんじゃないけど、でも結局食べちゃうわけだろ。それは本を放り投げるのとどっちが罪深い行為なんだよって話だ。そういえばトイレにも神様がいるって誰かが歌ってた。『エンタの神様』っていうお笑い番組もあったし『図書館の神様』という本もあった。どこもかしこも神様だらけで石を投げたら神様に当たりそうだけどどうせその石にも石の神様がいるんだろうな。 

と、言いたかったが俺はその言葉もまたビールと一緒にぐっと飲みこんだ。たったいましがた飲みこんだビールの中の一粒の麦芽にも93人くらいは神様がいたかもしれない。 

「いったい全部で何人いるんだ?」
「神様? さあ、八百万っていうくらいだからね。少なく見積もっても800万人以上はいるんでしょ」
「800万人?!」
「それくらいいっぱいいるってこと」 

まあそんだけいりゃあ米粒の中にも麦芽の中にもトイレにも図書館にも神様がいてもしょうがないか。というか逆に神様がいない物や場所を探す方が難しい。あ、そうだよ、このヱビスビールの缶にだってえびす様がいるし。 

と、声には出さず俺はあらためてヱビスビールの350ml缶のデザインをしげしげと眺めた。 

「ところでえびす様ってなんの――」
「もともとは漁業の神様だったらしいけど。釣竿と魚持ってる」
「あ、なるほどね」
「でもいまは一般的な福の神ってとこなんじゃない」
「服? シャツとか?」
福神漬けの福」
「カレーの?」
「カレーの」 

ほら結局食べちゃうんじゃないか。福神漬け。それもカレーの添え物として。しかも福の神を漬け物扱いして漬けるってどういうつもりなんだ。800万人の神様のバチがあたったって知らねえぞ俺は。そもそも神様なのに1人とか800万人とかなんで人間と同じように数えてるんだ。畏敬の念が足りねえんだよ。 

と、言いたかったが俺は空になったヱビスビール350ml缶をぐっと握りつぶして我慢した。 

「なあ」
「本当は人(にん)じゃなくて柱(はしら)って数えるの。一柱、二柱(ひとはしら、ふたはしら)」
「え?」
「だから貝柱とか柱時計とか柱谷哲二の柱」
「いや、そうじゃなくて――。芙由子おまえ、さっきから俺が頭の中で考えてることなんでわかるの?」
「ああ、そっち」
「そっちって……」
「しょうがないじゃない。どうせ怖がられるか気味悪がられるに決まってるからいままで誰にも言わなかったけど、ときどき私、目の前にいる人がなに考えてるのかなんとかくわかっちゃうことがあるんだよね」 

俺はとっさに自分の頭の中を消しゴムで消したり水で洗い流したりライターの火を点けて燃やしたりモザイクかけたりせめてブルーシートで覆うくらいはしたくて、いやいやいや、そういう考えさえたったいま芙由子には見透かされてるんだと思ったらますます混乱してパニックになりそうだった。 

「なあ」
「浮気してるでしょ?」
「え?」
「浮気」
「え?」
「――いたい」
「え?」
「――痛くて苦しくて悲しい」 

と、言った芙由子の頬を涙が一粒零れ落ちた。その一粒の涙にも涙の神様が126柱くらい宿っていたかもしれないと思ったらたちまちその場に居たたまれなくなって俺は握りつぶしたヱビスビールの350ml缶をキッチンのアルミ缶入れに捨てに行き、再びリビングに戻りソファの上の本を乱暴に掴みとって自分の部屋へ戻りかけた。 

「いたい」また奇妙な声がした。リビングに芙由子の姿はなかった。