ガレージの八百屋

五月。新緑の季節だ。暑くもなく寒くもない爽やかな陽気に誘われ、妻と二人久々の散歩に出た。といっても目的は決まっていた。家から歩けば少し歩きでがある温泉施設のチケットを2枚、知り合いから譲ってもらったので、有効期限内に使ってしまおうと思ったのだ。 

そこで小一時間ばかりのんびり寛いだ帰り道、家のすぐ近くまで来たところで、小さなガレージと隣の空駐車場いっぱいに店開きしている八百屋に寄って、野菜と果物を少しまとめて買って帰ることにした。 

玉葱、大根、レタス、小松菜、トマト、胡瓜、しめじ、えのき、大葉、葱、枇杷、アメリカンチェリー、グレープフルーツ、甘夏、思い切ってマンゴー。 

「その上、西瓜まで買うの?」と呆れる私に、「旦那さん、旬の食べ物は食べられるときに食べておいた方がいいよ。うちのお客さんでも急に来なくなる人があって心配してたら、亡くなったよ、なんてあとからひょいと知らされることがあるんだから」と八百屋のおやじが言う。 

「こんな店でも日に百人じゃ下らないお客さんが来てくれるからねえ、そりゃあいろんなことがありますよ」と、そんなふうなことをなおも八百屋のおやじが言い募り、私は、西瓜はいまは持って帰れないから、あとから子どもを取りに寄こすのでそれまで預かって置いてくれ、と頼んだ。 

両手に買ったばかりの野菜と果物の袋をぶら下げ、さっきの八百屋のおやじの話をつらつら考えてみると、あれはそうとう縁起の悪い話だったなあと可笑しくなった。だが、あのときは妙な説得力があった。「そうだ、食べられるうちに食べておこう」と聞く者に思わせるような。 

朴訥そうに見えてあのおやじ、あれで案外したたかな商売人なのかもしれないと思った。――それにしても、と私は考える。 

私の人生に旬などという季節があっただろうか? 

若いころは『グレート・ギャツビー』の主人公や、『勝手にしやがれ』のジャン=ポール・ベルモンドのような波乱万丈の生き方に憧れたこともあった。あるいは、トマス・ピンチョンリチャード・パワーズコーマック・マッカーシーみたいな好きな作家になることを夢見たこともある。 

それがどうだ。無我夢中でと言えば多少聞こえはいいが、要は平々凡々、山もなければ谷もない春の小川のせせらぎのように退屈極まりない人生をここまで生きてきてしまった。だとすれば、私の人生に旬などという季節があったのだろうか? 

果たして意味のある人生だったのだろうか? 

――だが待てよ、とまた私は思う。 

傍らの妻は、そんな退屈な男と人生の四半世紀を共に過ごしてきたのだ。彼女はそのことを後悔していないだろうか。私は自分の人生のことばかりクドクド思い悩んでみたが、妻にだってやりたことがあったかもしれない。もし私と出会わなければもっと華やかな人生が約束されていたかもしれないのだ。 

本当に哀れむべきは私ではなく、むしろ妻の方だ。そう思った途端、申し訳ないような、たまらなくいじらしいような心持ちがしてきた。 

夜のごはんを済ませたら、この買ったばかりのいまが旬だという果物を食べよう。その前に、西瓜はやはり私が引き取りに戻ろう。私たちの失われた人生の旬を取り戻すために。これから訪れるかもしれない旬の季節をガレージに置いてきぼりにしてしまわないように。