お返しだよ

初めて子どもに手を上げてしまった。小学5年生の次男の貴志に。夜ごはんの前のことだ。最初はよくある些細な言い争いだったはずが、とうとう終いには「ごはんなんか食べなくていい!」と怒鳴り飛ばした。気がついたときには貴志の頬を平手で叩いていた。 

それでも貴志は、妻の明美に促されるままキッチンのテーブルについた。箸を持つでもなく、俯いたままじっと固まっていた。下唇をぎゅうっと噛みしめていた。僕と明美と長男の文敏は、気まずい雰囲気のなか黙々とごはんを食べはじめた。気の遠くなるくらいの沈黙が続いた。 

いつもはうるさいテレビの音声も今夜は消えていた。茶碗と箸がカチカチぶつかる音。食べ物を咀嚼する音。ときおり屋外でどこかのなにかのモーターが狂ったみたいに唸りをあげる音が聴こえた。貴志以外の三人ともふだんの半分ほどのスピードでそそくさと食事を終え、流しで僕が洗い物をしているところへ貴志がやってきた。 

「ごめんなさい」と貴志はやや不貞腐れたふうに頭を下げた。きっと明美に諭されてやってきたのだろうと思った。「なにを謝っているのか自分でわかってるのか?」と僕は冷たく訊き返した。貴志が、モゴモゴなにごとかを口籠った。よく聞き取れない。「もういいからあっちへ行ってさっさとごはん食べろ」と僕は突き放すようにそう言った。 

貴志が戻っていき、また明美に宥められているようだった。するといきなり、声を飲み込むようにして泣く貴志の、その嗚咽が聞こえてきた。僕は思わず振り返った。貴志が、茶碗と箸を持った姿勢で小刻みに震えていた。明美が「思い切って泣きなさい」と背中をやさしくさすった。 

貴志は、堰を切ったようにポロポロ大粒の涙を零して声を絞り出した。僕にわかってもらえなかったことがよほど悔しいのか、あるいは自分を曲げてまで僕に頭を下げたことが悔しかったのか。そうしてしばらく泣くだけ泣いたあと、ときどきしゃくりあげながらごはんを食べた。明美がそうするよう言って甲斐甲斐しく世話を焼いていた。 

もうとっくに洗い物など片付いていたくせに、僕はいつまでもシンクを磨いてその場にしがみついていた。おろしたての台所用スポンジが手に馴染まないことが歯痒く感じた。 

キッチンの冷蔵庫と食器棚の隙間の壁のなかから、死んだ父親の幽霊がこっちを見ている気がした。中学2年生だった僕が、ケンカして弾みで父を投げ飛ばしてしまった夜のことを思い出していた。 

食事のとき油断するとすぐ片膝立てちゃう癖とか、カラスの行水とか、歳とってそういうとこだんだん似てくるよ、父さん。幽霊でもいいから会いたいと、ずっと思っていたんだ。壁のなかから父の笑い声が聞こえた。「ざまーみろ、あのときのお返しだ」。 

僕は精一杯ぎこちない笑顔を作り、テーブルの方を振り返った。